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犬を飼えば避けて通れない「愛犬の死」を初めて経験した夜
2020年11月25日水曜日。
夜、風呂から上がると、母親からメールが届いていた。
悲しいお知らせです。
まろがさっき22時30分に、旅立ちました。
元気なうちにもう一度会わせてやりたかったけどコロナでどうにもならず、残念です。
数秒、スマホ画面を眺めた後に「ああ、、、」という声が出た。
とうとうこの瞬間が来てしまったか、という感じ。
まろ、とは、実家で飼われているパピヨン犬だ。
今年で17歳。僕が高校を卒業し、大学進学で上京したすぐあとに実家で飼われ始めた犬。まろ。
数年前から体調を崩したりで通院が目立つようになり、いずれ遠からずこの瞬間は来るんだろうなとは思っていた。それがついに。
まぁ、御年17歳という老犬なので、基本的には大往生の人生(犬生?)だ。最後の瞬間は家族に囲まれ長年過ごした自宅内で迎えたようだし、きっと幸せだったと思いたい。
とはいえ、辛いし寂しいのは当たり前だ。
僕はこの夜、思い切り泣いてしまいたかったけど、ちょっとしか泣けなかった。
愛犬の死で振り返った「まろ」と過ごした17年間について
「まろ」と命名されたパピヨン犬が実家に来たのは、僕が高校を卒業した19歳のときだったと思う。
僕の上京を期に母親が子犬を飼ったという話を、当時の下宿先で聞いた。パピヨン純血種でケージやワクチン接種など諸々全部含めて15万円くらいだったと思うので、ペット生体の値段がこの17年でどれだけ上がったかよくわかる。
19歳で上京したばかりの僕は、後年に比較してよく実家に帰っていて、その度に子犬時代のまろと遊んでいた。
僕がまろが来た19歳から36歳になるまでの17年間
19~20歳の頃、帰郷した際に地元の友人と夜遊びをするのがすごく楽しい時期だった。
主に夏と冬、大学の長期休暇などに合わせて地元に帰り、中学高校時代の友人数名と真夜中の田舎町で遊び歩いていた。
といっても、公園で飲酒したり、自転車で海まで行ったりした程度だけども。
この頃莫大な時間を友人たちとの会話に費やしたはずなのに、その内容はほとんど覚えていない。「異常に楽しかった」というフレームの記憶が残っているだけで、詳細が全然残っていない。
夜通し遊んでべろべろに酔っぱらって明け方に帰ると、僕が玄関のドアを開ける音でまろが起きて吠えるのだった。
親にばれないようにこっそり帰ってこっそり寝てしまおうと思っても、まろが吼えるので当然僕の帰宅時間はバレバレだった。
最初のころはこの犬くそうぜーと思っていたが、吠えていても僕が顔を見せると吠え止んでしっぽを振るまろがかわいくて、次第にまろを好きになっていった。
ある3月の真冬の深夜、中学時代の友人と2人で自転車に乗り、荒れ狂う日本海を見に行ったことがある。薄着でガタガタ震えながら、コンビニで買った「熱燗娘」というカップ日本酒で暖を取りつつ何か話していた。
真冬の真夜中に薄着で日本海を見て震えるという無意味な行為が、当時19~20歳だった僕らにとって「ロック」だったのだ。
その帰りに松屋で当時280円だった牛丼か豚丼を食った。そして実家に帰ると、案の定まろが吼えて家族が起きた。親に文句を言われながらテレビを付けたら、いかりや長介が死んだニュースが流れた。えー!と思い、さっきまで一緒にいた友人にメールをすると、彼も同じニュースを見ていた。
胡坐をかきつつテレビを見る僕のひざ元に乗り、まろはしっぽを振っていた。僕はテレビを見るともなしに眺めつつ、徹夜明けでぼけた頭のまま、ひざ元のまろを撫で続けていた。
そんなことをしていたら、気が付くと僕は20歳を迎え、成人した。
東京の西の果てで大学生をやりながら、青春のすべてをバンド活動と文学に費やした。だんだんと地元にも帰らなくなり、まろに会うことも少なくなっていった。
帰っても年に一回、1~2日程度で、「まろは実家にいつもいる犬」という当たり前の存在になった。
25~26歳になり、人生の師であるKさんという人の元で働くようになると、ますます実家への足取りは遠のいた。最長で約2年も帰らなかった。
この頃まろは、たまに実家に帰った僕を見ると「なんだこいつは!」と、知らない人を見る感じで、吠えた。
けど、ちょっとすると「、、、ハッ!」みたいな、何かに気が付いたような一瞬の表情を浮かべ吠えやみ、19歳のころのように僕にしっぽを振ってくれた。そしてその、久しぶりに会ったまろが「、、、ハッ!」となるまでの間隔が、年を追うごとに長くなっていくのを感じていた。
いつでも会えると思っていたまろと最後に遊んだ日
まろと最後に会ったのは、2019年9月29日だった。
この時、まろは自分で目をひっかいてしまった目の治療で、エリザベスカラーをつけていた。のちに、この時のケガがもとになり両目ともに見えなくなってしまっていたことを知った。
最後に会ったまろは体調も芳しくなく通院がちで、謎の無駄吠えをするようになっていた。
これは、老犬が認識があやふやになり不安な気持ちでする行為である。大丈夫だよと安心させてやるのが一番いいんだろうと思いつつも、そういったことを調べようとしない母親たちにいらついて教えてやらなかったことを覚えている。
また年末年始にでも会いに来ようかなとぼんやり考えていたら、コロナ騒動に入ってしまった。
毎日が忙しいことを言い訳に、「コロナが落ち着いたら」といういつになるかわからない日を待っていたところ、、、である。
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愛犬の死を聞いた翌日、辛いし寂しいけど僕は会社に行った
まろが死んだ翌朝、僕は普通に会社に出勤した。
散々当ブログで「休みたければ会社なんて休みましょう」と言っていたというのに、休めなかった。
出勤したものの、当然何も集中できない。頭の中ではまろとの19歳から今日までの記憶がどんどん浮かんでいく。
そういえば、まろを飼い始めた最初のころは実家に帰るたびに靴下やジーンズにまろの毛が付くのがすごくいやだった。しかし、いつしかそれもかわいく思うようになった。これからはもう、実家に帰ってもまろの毛が付くこともないのか。
そんなことを考えていたら、母親からまたメールが届いた。
明日火葬することにしました。
10時からです。タイミングがあったら空みてやって
これを見た瞬間、僕は思った。
「まろに、最後の挨拶をしに行こう。」
世の中はド平日木曜日、翌日も金曜でド平日だったが、決めたら動きは速い。
僕は、まだ実家にいるまろに、最後に会いたかった。
大の大人が「飼い犬が亡くなったので明日休みます」と言うと白い目で見られるかもしれない気はしたが、僕を19歳から17年知っているまろと、たかが会社の人間を比べたらどちらが大切か考えるまでもない。
もう、実家にいるまろに会えるのは今夜しかないんだと思った。
即座に仕事をハイスピードで消化し、翌日分の引継ぎも後輩に済ませると最終の新幹線で地元まで向かった。
深夜に地元に向かう電車に乗っていると、まだ頻繁に地元に帰っていた19~20歳のころを思い出す。今はなき「ムーンライトえちご」という夜行列車に乗って夜の旅を楽しんでいた。偶然にも、まろに最後に会いに行く新幹線の中でそんなことを思い出した。
約1年ちょっとぶりに帰った地元で、実家にいるまろと会った
久しぶりに帰った地元は、もう全然知らない街になってる。その変化はここ数年は特に顕著で、もう記憶の中の地元とは別の街だ。
それもそのはずで、繰り返しだけど僕が地元から上京してもう17年が過ぎているんだ。
17年経てばどんなものでも変わる、19歳だった僕が36歳になり、生まれたばかりの子犬だったまろがその生涯を全うする期間が流れたのだ。街だって変わってしまう。
実家について会ったまろは、ありふれた表現だけどまるで寝ているような穏やかな表情をしていた。
ただ違うのは、開けたまま閉じなくなった目に光が亡くなってしまっていたこと。横たわる姿を見ても沸かない実感が、その目を見た途端に現実のものとなった。
「実はまろがご飯を食べなくなってから、元気なうちに会いに来てって言おうと思ってたんだけど、世の中が世の中だからあえて言わなかった」
「ほんとに昨日の朝まで吠えて歩いて元気だったのに。夕方まで吠えてたんだよ。」
「急におなかが痛そうになきはじめて、慌てて担当のお医者さんに電話したら膵臓じゃないかって話になって。」
「もう最後、ってなる前に、ちゃんと自分でしっこもうんちもしっかり出し切ったんだよ。全部自分で済ませて、きれいに逝ったんだよ。呼吸が止まってもしばらく心臓が動いたままだった。」
「斉場に連れて行くときは、まろが17年の半分くらいを過ごしたであろうパンダの布団でくるんでいくよ。リードも、もう使うときはないんだろうね。」
「どんな最後だった?」と聞いた僕に、母親は当時の状況を(といってもほんの24時間くらい前なんだけど)事細かに話してくれた。
しかし、僕の目の前で、目を開けたまま眠るように固まっているまろから目を離せず、ほとんど内容が頭に入ってこなかった。
そのまま約2時間、まろとの最後の時間を過ごした。
二度とまろの吠える声は聞けなくなったし、しっぽを振ってすり寄ってくる姿も見ることはできない。もうどこも見ていない光を失ったまろの目を見ながら最後のお話をして、僕はホテルに戻った(どうでもいい話だが実家にはもう僕の部屋はないのでホテルを予約していたんです)。
そして、ホテルに戻った僕は、頭の中で、実家で最後の夜を過ごしているまろと会話をした。
まろと僕の最後の会話
「久しぶりだね、まろ。最後に会った時から一年以上が過ぎてしまったね。」
「よう、久しぶりだな。どうだ、調子は。バンドで一旗上げたのかい?」
「それが、、、バンドはもうずいぶんやってないんだ。」
「なんだ、あれだけロックだパンクだ言っていたのに。一体なにがあったんだ?」
「、、、すごく、ものすごくいろいろなことがあったんだよ。」
「そうみたいだね。顔を見ればよくわかるよ。」
「まろ、キミが僕の実家に来てからもう17年がたったんだ。子犬だったキミと遊んでいた19歳の僕は36歳になってしまった。あの頃とはいろいろなことが変わってしまったんだ」
「いろいろなことが変わる、そんなことは当然さ。おれたちは人間の数倍の速さで年を取る。お前は36歳というが、おれはお前たちの年齢でいえば90歳くらいだ。36歳のお前の倍以上の体感を過ごしたからよくわかる。この家だってお前がいたころとは全然違うだろ。変わらないものはないけど、変化に順応して受け入れて、生きていかなければいけないんだと思うよ。」
「、、、そうだね。まろから見たら僕はどう映っていた?」
「おれから見たら、か。お前が一番遊んでくれてたガキのころの印象が強いよ。20歳過ぎたころから全然帰ってこなくなっただろ、忙しいんだなと思ってたよ。」
「ごめんね。あんまり音楽も聴かなくなっちゃった。」
「それは残念だな。すごく残念に思うよ。そうか、あんなに音楽を愛していたお前が、そうか。お前は、なりたかった大人になれなかったのか?」
「それは、、、まだわからないんだ。毎日を必死に生きていたら気が付いたらもうこの年になってしまった。自分の中では、キミがまだ子犬だったあの頃と大して変わってないのに。気が付いたら17年も過ぎてしまっていたんだ。いつまでも実家に帰れば、昔の友人たちと夜通し遊び歩けるもんだと思ってた。早朝に帰ってきて、まろが吠えて家族が起きて、またこんな時間までとか親に文句言われながらまろを撫でて眠る日々がずっと続くと思っていた。昔の友人たちも一人ずついなくなってしまった。もう夜通し遊ぶこともなくなってしまった。親に文句を言われる年でなくなったし、そしてもう、吠えるキミを撫でることもできなくなってしまったんだね。まろ、音楽も聴かなくなり、バンドもギターもやらなくなって、36年も生きてしまった。僕は一体、いつ大人になれるんだろう。」
「大丈夫、お前はもうなりたかった大人にきっとなってるよ。自分の意志で今夜、最後に来てくれただろ。おれに会いに来てくれたじゃないか。毎日の予定調和を破って、自分の欲求に従って行動できたじゃないか。お前はもう大人だよ。お前は今日、自分で決めて日常の歯車を狂わせてでもおれに会いに来た。うれしかったよ、19歳のころのお前が戻ったみたいだった。遊んでくれた日々を思い出したよ。きっとお前は、なりたかった大人になれている。安心してくれよ。」
「ありがとう、キミがそう思ってくれて、本当にうれしい。もう19歳じゃなくなってしまったし、これからどんどんおじさんになっていって、年をとってしまうけど、絶対に頑張り続けてる。生きていくことはやめないよ。キミが生きた90歳まで、頑張って生きていくよ」
「そうだね。それがいいと思うよ。おれも応援している。じゃあ、おれはもう疲れたから一足先に眠るからね。」
「まろ、17年間ほんとにありがとう。キミがいてくれたこの17年は本当に素晴らしくて、一生忘れないからね」
「うん、ありがとう。またね」
愛犬の死を乗り越えて、僕たちは明日も生きていく
翌日、ほとんど眠らないまま斉場に向かった。
昨日見たのと同じ格好と表情のまろは、棺に入れる前に抱くとぐんにゃりした感じだった
遺髪や遺骨を入れるペンダント型のロケットをすすめられたが、僕はまろの体を地元と東京にバラバラにしたくなくって、断った。
焼かれる前のまろに本当の最後の挨拶をし、約1時間ほど待合室で骨になるまろを待った。
遺骨となり出たきたまろは、すごく小さい骨になっていたが、頭がい骨は原型をとどめていた。
トレーに乗せられた遺骨を前に、父親が「あぁ、、、こんな小さくなってしまうんだね」と言ったのを聞き、その言い方がすごくおじいさんのようで、この人も年を取ったんだなと感じた。
遺骨を骨壺に収める作業は、僕は一本だけやらせてもらい、あとは家族が納骨する様を眺めてた。所詮僕は部外者なので、晩年のまろのつらい姿と真摯に向き合った家族がやるべきと思った。
そのまま、骨壺に収まったまろを実家に連れて帰った。この時20年ぶりくらいに、父親が運転する車で家族が集まった。
「昔この道が渋滞しててねぇ。車の中で『尾崎んちのばばあ』のカセットテープを延々と繰り返し聞いていたの覚えてる?」
母親が、おそらく僕が小学校4年生くらいのときの話をふってきたが、僕は覚えていなかったので「そうだね」としか言えなかった。
同じ車で実家に帰る家族がそろったことは、本当に久しぶりのことだった。まろのことがなければ、もう二度となかった瞬間かもしれない。
まろとの想い出をたくさん振り返ったが、17年間も家族で会ったのに印象的な出来事が、思いのほか思い出せなかったことが悲しい。
真っ先に思い浮かんだ出来事は、まだ子犬時代、トイレのしつけは完璧だと母親が豪語した数分後に僕が素足でうんこを踏んで、家族で大笑いしたこと。
そのほかにもたくさん家族に幸せな想いや笑いを与えてくれていたはずなのに、僕はあまり思い出せなかった。
まぁいい。人生は長い、これからもまろのことをたくさん考えて色々思い出していこう。
実家に戻り、まろの遺骨を置いて遺影を飾った。
もう一匹いる飼い犬が、「まろの匂いがするのになぜいないの?」みたいな感じで、落ち着きなくあたりをうろうろしているのがかわいそうだった。
これからはキミだけになっちゃったね。
まろと一緒に燃やそうとしたが、条例で禁止されていると言われ持ち帰ることになった、パンダの布団。これにはきっと、まろに匂いがたくさんついているんだろう。
一生懸命にパンダ布団の匂いをかいでいるもう一匹の飼い犬を眺めつつ、もう少し実家に帰ってくるようにしないといけないかもなと考えていた。
そして僕は、10年ぶりくらいに昼間の地元の街を散歩して、夜が来る前に東京に戻った。
帰りの新幹線の中で、このブログを書きながらボロボロ泣いてしまった。
東京の自宅に戻ると、すぐにまろの遺影を飾った。大好きなアクションスターであるシュワルツェネッガーとスタローンのサインフォトの上に。
その写真を母親に送ると
「まろ喜んでる」
と返信があった。
週末は終わり、明日からまた僕の日常が始まる。
世界一の愛犬『まろ』にこのブログを捧げます
僕はこのブログを、下記のシチュエーションで書き上げました。
- まろが死んだ翌日の会社
- 実家に戻る新幹線の中
- 実家にいるまろと最後の会話をした後のホテル
- まろの焼き上がりを待つ控室
- 帰りの新幹線の中
- 東京の自宅に帰宅後、まろの遺影の前で
この記事を、17年の生涯を全うした世界一の愛犬のまろに捧げます。
最後までがんばったね。本当に17年間ありがとう。
僕もキミのように立派な終わりを迎えられるよう、頑張って生きていくから見ててね。